やってもうたらええねん。

1996年生まれ できるだけ悪口は書かない

社会人生活第一章②2020.6〜2020.12

東京支店に配属されて数週間経過した。

上司から言われたのは、マンション建設の初めの部分である土地の仕入れからマンション竣工までを担当する「開発部」か利回り物件を探してきたり、開発の人間が建てた物件を売却する「ソリューション部」のどちらかに配属されるとのことだった。

俺は開発部に行きたいと思っていたが、ここで事件が起こった。

なんと一緒に配属になった同期が失踪してしまった。残された部屋には段ボールが一つだけ。当初の予定では、俺が開発部、失踪した彼がソリューション部に配属されることになっていたが、ソリューション部の人数が不足していたこともあり、俺がソリューション部に入る流れになりそうだった。

俺はソリューション部に向いてなさそうだと直感的に思い、開発部課長のIさんに電話して、何とか開発部に入れてくださいみたいな電話をした結果、開発部見習いみたいな立ち位置になった。

後々聞いた話だと、ゴルフ中に支店長が課長にあいつおもろいなあ開発部でええかと言ってくれていたらしいが、今現在、支店長からも課長からも正式に開発部と言われていない。当時は適当な会社であった。

7月ぐらいから宅建業者リストが配られ、手当たり次第、アポイント取りのための電話営業をした。多分千代田区中央区•港区のほぼ全ての業者に電話したと思う。他には過去地図を取りに行ったり、先輩の物件の事業収支を打ったりと主に雑用をしていた。割と仕事を覚えるのは早かったと思う。早い段階で事業収支の意味は理解していたし専門用語も何となく理解していた。

コロナ禍で会社に行くと怒られてたので、家で仕事してた。我ながらよくモチベーションを保ててたなと思う。これに関しては先輩のOさんに助けて貰っていた。当時から周りには恵まれていたと思う。

10月ごろから本格的にOさんが俺のOJTになった。Oさんの指導は、顔に似合わずスパルタだった。

この物件買えるからやってみろと言われ、俺が主担当で仲介と交渉等全部やってみろとの事。当然全くできない。何でできんのだと怒られたが、できる訳ないやんやっぱこいつアホやろと思っていた。

今となっては、多少負荷かけて仕事させなあかんのはわかるけど、あれは負荷をかけすぎである。

こんな感じで自分の業者作りのための電話営業•先輩の手伝いを中心に12月頃まで仕事していた。

この時期になると本当に何となくだがコツを掴めてきた。

誰が社内のキーマンなのか。どんな物件情報を見つけてきたらいいのか。どのエリアが競合が少ないのか。等々わからないなりに少しずつ考え方がわかってきた。

Oさんには2年目終了時に源泉(自分で見つけてきたルート)で1本買えれば上出来と言われていたが、2年で1本目標やったらあかんやろ2年で3本やるんやと息巻いていた。

そして年が明けたぐらいに、少し光が差してきた。